東日本大震災から12年経ったおじさんの今

東日本大震災直後 日記

12年前の2011年3月11日。年齢26才の自分はとある企業の自社ビルで働いていたのだけれど、その瞬間はいまも記憶に残っているしなんだったらものすごく具体的にも覚えている。

東日本大震災直後のとある場所

これまで色々な機会で当日の出来事は語ってきたし、そのたびになにかしらの「こうしたい」という想いは語ってきたのだけれど、気づくといまは東北から離れて千葉県に住んでいるし、当時とは比べ物にならないほどの幸福で満ち溢れている。
実はと言ってもこれまた至る所でお話をしているので、僕の知り合いからすると「またか」という話ではあるのだけれどこの日は丁度「沖にいる友だちの元へ遊びに行く予定」だったのですが、いろいろあって一週間早めて行きました。

いまはもう無いお店の唐揚げ定食

亡き友人とは、めちゃくちゃ大盛りの唐揚げ定食を食べて馬鹿みたいな会話をした記憶しか残っていません。それだけ日常の一部だったので、特別ななにかは一切ありませんでした。

そして14:46だか14:47くらいに一気に地震に襲われて立ち上がることも自分の体を支えることもできないような、当時被災した人間が万遍なく経験したことを鮮明に思い出すこともできます。

仙台駅近辺でおそらく最速で再開したラーメン屋さん

ラーメンが好きな自分は震災直後からしばらくはラーメンなんて食べられなかった。ガスやガソリン、電池なんかももったいなくてなかなか使えなかったので節制して温かいものを食べられない、という日々も続いていたのだけど、ラーメン屋さんが開店するということで意気揚々と向かったことを覚えている。店長もなんだか同志みたいな感じで話しかけてくれて、一緒に頑張りましょう的な会話をしつつ、いつもと違う材料で作ってるんで。。。と申し訳無さそう。
温かい食べ物なんて久しぶりだったので、日常のありがたみを感じたときでもあった。

松島のとある場所

時間が経つにつれて、友人が亡くなっていること、母が亡くなっていることを日々更新されていく「亡くなった方々」をまとめたPDFで知ることになります。
疎遠になっていた友人たちとも連絡を取り合い、お互いに嫌い合っていた人たちとも助け合うような日々がある意味で「日常」になっていきました。
震災直後に松島や女川などの沿岸沿いに行き、いろいろと変わった地形を確認したりもしましたね。見たことがあるはずの景観は微妙に変わり、違和感を覚えたのでした。

ぺしゃんこになった排水溝

身の回りの震災の影響があった写真として、あまり心臓に悪くない写真を選定するとこんな感じ。排水溝が使い物にならない状態になっていることが見慣れた景観になりました。写真は地面がズレて排水口部分をそのままぺったんこにしちゃった状態です。ライフライン周りの影響が少ない地域にお世話になったりも当時は日常でしたし、スーパーに5時間並んで買い出しをしたり、トイレットペーパーはどこに売ってるとか、生理用品、赤ちゃん用おむつはどこにあるとか、なんだったら代わりに買っておく、なんてのも日常でしたね。

ガーデニングしてんじゃねえよと言われたWebガーデン仙台

なんやかんや一年が経つ頃、自分の働き方に疑問を持ちながら被災地復興支援をモチベーションに新たな企業に所属することになり、なんやかんや10年ほど経ちました。とはいえ、自分の力なんてものは大したものはなく、割と自身があったフロントエンドエンジニアとしてのスキルは実は大したことなかったなと自覚したり、Webアクセシビリティこそやっていくべきだ!という気づきを得てから10年経ちましたが所属企業で文化として醸成できたかというと、はて?と疑問符が浮かびます。

新しい家族:るり

10年が経つ頃に千葉県へ引っ越してきて、大きく生活が変わりました。家族と一緒の生活に加えて、猫も飼い始め、リモートワークが中心になった日常では東日本大震災があった当時と比べて、あくまで個人的にではありますが「幸福」な日々を送ることができるようになったのはここに至るまで関わってくれた方々のおかげです。

特に、(いまも)お世話になってきたクライアントによる支えが非常に大きく、前を見続けなければいけないと感じる日々を送っています。

「るり」と「ほてまる」

自分自身はだんだんと自立できて、幸せな生活を送れているのですが、このままでいいのかなぁ、と思うような時代に突入してきました。

思えば12年前、所属していた企業に守られていたときに「自分でもなにかできないかな?」と考え、いまの企業に来ることで「雇用創出に貢献して、本来都内に落ちるはずのお金を地元仙台にお金を落とす」という考えでいまの企業へ転職したはずです。そして、就業者数が増えれば増えるほどそのお金は大きなものになり、長期的な支援になるという考えは本当にしっくりきたものであり、一時的な支援よりも遥かに効果的だと考えました。
12年経った今、気がつくと所属している企業に守られているような。
一つの企業に所属するほうがリスク、副業が当たり前、リモートワーク、円安に戦争、SDGs、コロナ、自然災害に異常気象、温暖化に脱グルテン、なんだかいろいろと時代が変わりすぎて大変であるにも関わらずに幸福を味わえるのは所属する企業のおかげかな、と思うことも多々あります。

いまから12年後だと、なんと50歳です。子どもたちも成人を迎え、きっと今住んでいる家はリフォームが必要になっていたりするでしょうし所謂2035年問題にもなって団塊世代が日本人口の1/3を占めるようになり、医療負担が異常値になっていることでしょう。

ぼーっとしているあいだにも、どうやら東日本大震災による強制的な変動と併走して、世の中は変わっていくようです。ぼーっとしていたらなにもしないで50歳になるのかな、と考えたら急に焦り始めました。とはいえ現時点でも十分おじさんだったりします。

東日本大震災直後

上の写真は自分にとって、ある意味で罪深い写真です。まだ救助活動自体されていないタイミングで、もしかすると。。。という状態で収めた写真は自分がまともな人間ではないかもしれない、という行動でした。
ここは津波が襲う前はごく普通の整理された区画だったんですよ。

本来であれば脇目も振らず、生存者を探すべきだったのかもしれませんがここで僕のとった行動は頻繁に発生する余震におびえて「写真だけとって逃げる」というものでした。
未だに、この日が来るたびに「自分には何ができるんだろう?」と自問自答し、それでも目の前のことで精一杯な現実に直面します。

ひとまず、目の前のことを一生懸命やっていこうかなって思いますので引き続きよろしくお願いいたします。

           

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ma-san(鈴木正行)
テクニカルディレクター / Webデザイナー

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