子どもとコミュニケーションを取ることで学ぶ素直さ
あたし、35歳おっさん。子どもと触れ合うことで浄化される日々。
みなさんこんばんは。
宮城県仙台市にてWebのちからで様々な情報にアクセスしやすくし、様々なパフォーマンス改善をしちゃったりする時にはWebディレクター、時にはWebプランナー、時にはWebエンジニア、時にはWebデザイナー。
世界中の子どもの味方、ma-sanです。
子どもってすごいですよね。
発想の柔らかさといい、素直な心といい、ちょっと悪いことしてもコンマ一秒でバレるような嘘でごまかそうとするところといい。
というわけで本日のお話です。
1.目線が変われば世界はかんたんに変わる
子どもたちと話をするとき、僕が気をつけているのは目線の位置です。
できるだけ、子どもたちと同じ目線で話すようにしています。
彼らはどのようにして世界を見て、どのように感じているのか垣間見えます。
大人からすればかんたんだ、なんて思うことでも子どもたちからすれば難しいかもしれない。
反対に、子どもたちじゃないと気がつくことができないこともたくさんある。
仕事の場面においても、この目線の話は考えることができます。
いち制作者であるWebデザイナーと、会社勤めであればマネージャーや役員、先輩などの立場。
取引先担当者や、取引先の上長など、立場も違えま目線も違うのは当然です。
意見の食い違いから発生するミスコミュニケーションは、自分の正当性ばかりを主張しても、多角的に物事を考えられていないということが多いです。
自分なら解決できる、自分なら答えを導き出せる。
それは、たいていの場合は自分だけが納得する解答であり、多方面の方々が納得できるかはまた別です。
正論ばかり言っても響かないのです。
子どもの視線に変えてみましょう。
大人が如何にして、正論や将来の役に立つと言って勉学や習い事を強いても、中にはやり抜ける子どもたちもいるでしょうがなかなか難しい、子どもたち自身が納得しないことのほうが多く感じます。
彼らは別に、正論がほしいのではありません。
自分が納得できること、自分が考えられること、自分の立場と能力、その他多数の要素を大人の正論で子どもに押し付けたところで難しいものがあります。
自分の考えや感じ方が偏見に満ちているかに気づかせてくれるのが子どもです。
「いま、忙しいから」「いいから」「言うことを聞きなさい」なんて言葉。
自分が子どものときに言われて「うーん」と感じたことを言いそうになったり、実際に態度に出してしまうたびに「僕も同じことしてるじゃん、親ってこんな気持だったのか」と思い知らされるばかりです。
SNSなどで、なにかをしでかした人相手に言いたい放題の方々は大半の場合「相手の目線」を持たずに感情的な「正論」をぶつけている姿を目にします。
2.子どもの嘘に学ぶ
子どもと遊んでいたり、約束事をしたりすると「え、そんな嘘つくの?」と驚くような嘘に出くわすことが多々あります。
褒められたい場合、見栄を張りたいという思いからついてしまう嘘。
「それは違うよ」「嘘だよね」
なんて言うことはかんたんです。
しかし、この嘘をついたときの様子や状況を分析するとなかなか面白いことが見えます。
子どもの嘘、というのは「大人ではしないような嘘」です。
最近で言えば「1兆秒くらいなら生きることができる」と言われました。
見栄を貼りたいのかなんなのか、大人だったらざっと計算して「お前、1日で86400秒だぞ。。。」と言ったところで「1兆秒くらいいける!」というのです。
更にまじめに「100日で8640000秒…」とか言うところでくっそつまらない大人です。
彼は1兆秒という「秒」という単位であればなんかよくわからんけど生きていけそう!と感じたのです。
また、勝手に大人のスマートフォンを使っていて、ゲーム「にゃんこ大戦争」をプレイしながら「ゲームやってないよ!!YouTubeだよ!!」って言われたときもスマートフォンを勝手に持っていったことを注意しようと思ってたんだけどなぁ、と思いながら高い高いの刑に処す。
大人になってしまった僕らは、予期しない、そんな嘘はつかないよ、ということをいともかんたんに打ち込んできます。
予想外の事実を目の当たりにした際に得られる驚きは、大人として受け入れる心さえあれば「なるほどなー、そういう言い方もあるのか」とか「いや、そんな嘘はすぐバレるからこうするべきだ」的な思考になり、非常に刺激になります。
大人になった、ということは「事故を起こさない」「ズレが生じない」ということを意識できるようになりますが、彼らは正面突破で「嘘を貫き通そう」とします。
3.無邪気さ、素直さから学ぶ
嘘やいけないことをしたときに、感情的になって怒るのはかんたんですが、「どうしたの?」と聞くことがとても大切です。
よく、兄弟喧嘩をしたときに「殴られた!」と片方の子どもがもう片方を「叱ってくれ!」と誘導しようとしてきます。
殴った、という単語だけを切り抜いたら「暴力はだめでしょ!」と言いたくなりますが、実際はどうでしょう?
「どうして殴られたの?」
と一言挟むと「殴ったから殴られた」「自分は弱く殴ったのに本気で殴ってきた」とまぁどっちもどっちだねぇ、となることがとても多いです。
しかし、更に「どうして殴ったの?」と聞いたりするうちにどんどん素直に、まぁこれが本当に見事に自爆します。
いや、最初に殴ったお前が結局悪いんじゃないか!ということがかなり多いです。
というわけでお互いにごめんなさいしなさい、となるのですが彼らはどちらかを悪者にしたい、叱ってほしい、自分は悪くない、と主張をすることもあるので「よし、じゃあそんなに兄弟喧嘩したいなら僕を本気で殴れ」と言ってみたことがあります。
たかが子ども、本気で殴られてもいたくねえ!と思ってたら意外とやつら、つよい。あと、肋とか禁止。
んで、なんどか殴られてるうちに「いたああああああい!!!!!」と全力で痛がる。演技じゃなくて本当に痛くなってきたんだけど。
そうしたら「本気で殴ったら大人も痛いんだ」と思うようになったのか、兄弟同士で殴り合うことがなくなりました。
彼らは無邪気に暴力を振るったり、言葉を投げかけたりします。無邪気で素直で、経験不足からくる行動が傷つけることがある、ということを素直に学習します。
大人の一挙一動も見られています。
暴力や嘘をついたからひとくくりにして許さん!とすることはせず、素直にごめんなさいをできたらその時点で褒めちゃいます。
できたことは褒めるし、できないことはどうして?
子どもたちの素直さは本当に貴重です。
まとめ
子どもたちをなめていると、その成長速度に大人がついていけないことがたくさんあります。
え、もうそんなことができるの?とか前に教えた以上のことができてるとか。
逆に、なんでできないの!と言ったことは延々とできません。
子どもたちをコミュニケーションを取ることで、普段の自分のコミュニケーションについて思い知らされることがたくさんあるなぁと感じるのです。