※震災の内容です。まだ、気持ちの整理がついていない人は読まないほうがいいかもしれません。
大震災の途中、僕は手に持ったiPhoneですぐツイートをしていた。
大きな揺れのなか、職場のリーダーに机の中に潜ってと言われながら、iPhoneを手に取り「無事です」という旨のツイートをしていた。
大きな揺れは予想以上で、机の中に隠れているにもかかわらず、自分の身体が上下左右に揺さぶられて、隠れている机に頭を何度もぶつけた。大きな音がして、蛍光灯から光がなくなって、本棚が倒れパソコンのモニターが吹っ飛んで、よく分からなかった。
ただ一つ、思ったことは「みんな無事でいてくれ」ということだけだった。
自分はまだ生きているし痛い目にもあってない、怪我もしていないけど、すぐ隣に座っていた人ですらどういう状況かわからない。
自分のことは分かるから、早くみんなの状況が知りたい。
そう思いながら過ごした数分間、それが東日本大震災の真っ只中の、僕の思考だった。
揺れが収まり、机の下から這い出そうとすると、倒れた本棚に片足を挟まれていた。幸い、あとで確認して分かったが、痣になった程度で大した怪我にはならなかったが、その当時はきっと脳内がそれどころではないと判断をしていたのだろう。
痛いとか、そういう感覚はなく、それよりもやることが沢山あるように思えた。
同僚とまず、近所の小学校に避難をした。
数百人(数千人?)、小学校の校庭に集まった人々。
どういう状況かわからないまま、立って誰から得られるかわからない、なにかの情報を待っていた。子供達を迎えに来た親達を見送りながら、自分は帰れるのかな、なんて思って見ていた。
いや、自分は歩いて帰れるけど、他の人たちはどうなんだろう。
いざというときは自分の家に泊めるか、でもみんな女の子だし、どうしよう。いや、そんなこと言ってる場合じゃないだろ。いざというときは俺だけ出ていけばいい。とか考えていた気がする。
帰り道が同じだった同僚の家に途中でお世話になり、吹雪いてきたこともあって暖をとらせてもらった。
自分以外女性だったので、男らしいことの一つでもしてあげることができれば良かったが、何一つすることがなかった。
温かい食べ物を頂戴し、自分がいることで女性陣があまり固まれず、互いに暖めあうことができないことに気がついた。
一人で帰ろう、そう思ってすぐに同僚の家を出た。
その頃にはあたりは暗くなっていて、途中にあるお店の天井が崩れていたり、ガラス張りのオフィスが筒抜け状態になっていたり、電線が落ちていたりしている中、僕は走っていた。とても歩いてなんかいられなかった。
途中にある家が潰れている。
途中にある橋がずれている。
途中にある川が逆流している。
それら全てを無視して、僕は自宅へ戻った。
自宅内に入ると、幸いにも壁などが崩れている程度で、家具などは一切壊れていなかった。
数日前にも大きい地震があり、念のためと割れ物などは全て床に整理していたのが幸いした。
室内にあった冷蔵庫やカラーボックスはフローリングによって綺麗にスライドしたのか、倒れることなく位置が大きくずれているだけで済んでいた。
この頃にはネットにつなぐこともできず、電池をあまり消費するのも危険だと判断し、普段使わないラジオに電池を入れて状況を確認することにした。
部屋中の布団、毛布をかき集めて、ロウソクに火をともし、一夜を過ごした。
ラジオからは沢山の情報が聞こえてくる。死者の数がどんどん増える。津波が凄いことになっているらしい。今回は宮城県沖地震ではないのか?などなど。
揺れが起こるたび、飛び起きてロウソクの火を消し、光がないことに恐怖して再びつけて、横になる。それを何回も繰り返している間に、朝を迎えた。
朝を迎えたとき、冷蔵庫の中には冷たいものしかなかった。当たり前だけど。
当日、晩ご飯はシーザーサラダにしようと用意していた生野菜をドレッシングをかけて食べた。とても冷たくて、熱を奪われた気分になったが、処理できる食べ物は早い間に食べておこう、そう判断した。
その後、牛乳も片付けようと思ってチョコクリスピーを食べた。更に熱を奪われたが、カロリーはとれたと思って気分は少し良くなった。
引き篭っていても仕方がないので、近所の市役所に行って様子を調べてこよう。
3月12日の7時頃。普段の土曜日であれば、寝ている時間。
外に出て、たまたま手に入れた河北新報社の新聞。
僕は、なにも知らないまま大災害が起こっていたことにようやく気がついた。
以上がとても短く、長い時間で見れば、ほんの一瞬。
東日本大震災直後の僕の一日。
この段階ではまだ気がついていない。
既に自分にとっての目標がひとつ、物理的に失っていたこと。
今後行うべき自分のこと。
なにをするべきかを迷い、現状維持を決め込みながら、いろいろな人との繋がりを求めた。
しかし、自分は誰かを助けたり、幸せにできるなんて、ただの自惚れだと思い知らされた。
僕にはあまり多くの人に教えていない、3つの目標がある。
しばらく会っていなかった母が亡くなり、人生の目標の一つであった「母親に産んでくれてありがとうと伝える」という目標がなくなった。
「仙台でクリエイターが活躍できる組織を作る」という目標も、震災直後ではなにがあるかわからないということで諦めてしまった。
もう一つの目標は、まぁ、これは本当に僕個人のことなのでどうでもいいことだが、「結婚」である。これも諦めてしまった。
でも、目標が失った、なんてことは嘘だ。
全ては僕の見方一つで変わる。
母親がいなくても、胸を張って生きているだけでいい。
組織を作るのに早いも遅いもない。
結婚なんてどこに縁が転がっているのかわかりはしない。
2011年を振り返り、僕は思う。
2012年はきっと。
僕にとって自分が自分を救う年なのだと。
後悔して、悲しんで、悩んだ自分を知ったからこそ、自分にできることをするだけだ。
現状維持なんて、非力で貧弱な自分のままなんてゴメンだ。
一年が経って、一周忌を迎え、一周年を迎え、一年間が過ぎ去った。
家族には感謝をしている。友人にも感謝している。同僚の方々ももちろん。たまたま知り合った方々も。付き合ってくれた人にも感謝を。
不安しかなかった2011年。多くの方々に迷惑をかけた。
いつもの、いままでの自分に戻るのに、一年かかった。
やりたいことは全てやる。やれないことでもやれるようになる。
仙台国際センターにて追悼式に参加してそう強く想いました
2012年。
自分自身と被災地の再構築、それが僕の新しい目標です。